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沉默的多数派

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広义门院が上皇の役割を代行することは、事実上、広义门院が治天の君として院政を开始することを意味していた。実际、6月19日以降、政务?人事に関する広义门院の令旨が出されはじめており、6月27日には「官位等を正平一统以前の状态に复旧する」内容の広义门院令旨(天下一同法)が発令され、この令旨により、それまで停滞していた政务?人事?仪式などがすべて再に动き始めることとなった。弥仁王も同年8月に践祚して後光厳天皇となった。南朝は、上皇ら拉致により北朝?幕府侧を回复不能の穷状へ追い込み、圧倒的な优位に立ったはずだったが、広义门院の政务受诺によりその优位性をほぼ完全に失ってしまった。

正平12年(1357年)2月に光厳院、崇光天皇と直仁亲王とともに帰京する。でも、不测の事态もあった。皇位を追われた崇光院と後光厳の関系は微妙なものがあり、応安3年(1370年)8月に後光厳が自らの子息绪仁への譲位を望むとともに、両者の関系は正式的な决裂した。崇光院は即位の事情から後光厳の天皇となる正统性を疑われており、绪仁を正式に皇太子に立てることもできなかった後光厳に対し、逆に崇光は自らの皇子栄仁の即位を要求していた。

この状况に対して、幕府管领细川頼之が指导する幕府で不介入方针をもって、最终的には後光厳に押し切られ、後光厳から绪仁への譲位が実现した。

その时期、崇光は後光厳に対する连続の挑戦を行く、南北両朝の京都争夺とともに、王家の権威は不断下げる。南朝対策など政治は胶着状态であったが、春日神木の入洛など寺社势力による强诉が相次ぎ朝廷仪式は衰退するなど、深刻な状况であった。

応安3年、兴福寺内纷を巡る春日神木の入洛があり、廃朝状态となる。後光厳上皇は强诉を镇圧しようとするが、衆徒たちは激しく抵抗して神木を洛中に留めて後光厳を支持する公卿を放氏処分とする。このため後光厳は孤立した。

康暦2年(1380年、南朝天授6年)、十市远康ら南朝方武家に夺われた寺社领の返还を求める兴福寺の大衆が春日大社の神木を奉じて洛中に强诉に及んだ(康暦の强诉)。摂関家以下藤原氏系の公卿は神木の神威を恐れて出仕を自重して宫中行事が停滞する中、三代将军足利义満は自分が源氏であることを理由に出仕を続け、一时中断していた御游始?作文始?歌会始などを立て続けに大々的に再兴して反対に大衆を威圧した。このため、同年12月15日に大衆と神木は幕府の十市讨伐の约束以外に具体的な成果を得ることなく奈良に戻り、歴史上初めて神木入洛による强诉を失败に终わらせて寺社势力に大打撃を与えた。

义満は永和4年(1378年、天授4年)3月に右近卫大将に任ぜられ(征夷大将军と近卫大将兼务は惟康亲王以来)、5か月後には権大纳言を兼务して以後、朝廷の长老である二条良基の支援を受けながら、公家社会の一员として积极的に参加する姿势を见せる。

永徳3年(1383年、南朝弘和3年)には武家として初めて源氏长者となり淳和?奨学両院别当を兼任、准三后の宣下を受け、名実ともに公武両势力の顶点に上り诘めた。摂関家の人々にも偏讳を与えるようになるなどその势威はますます盛んになり、掣肘できるものは皆无に等しかった。また、これまで院や天皇の意思を伝えていた伝奏から命令を出させ、公武の一体化を推し进めた。

右近卫大将として、行幸?节会などで重要な职务を果たす必要があり、宫中の故実作法や文化教养に通じている必要があった。そのため、良基による义満への礼仪作法を教えてしまった。それは北朝と室町幕府の一体化を进めて、権威大幅に低下な北朝の安定化戦略の第一歩であろう。

永徳2年(1382年)4月11日に後円融天皇は息子の後小松天皇に譲位した。その原因大体は义満に対する不満であろう。

永徳3年、後円融は义満を対抗するため仙洞御所を访问した足利义満との面会を拒否した。ただし、义満は仙洞に参内せず他の公卿も远虑したため、仙洞の机能が停止することになる。後円融は朝廷の事务に积极的に介入した活动が完全な失败した。

2月1日には出産を终えて宫中へ戻った妃の厳子に対して义満との密通を疑ってこれを殴打、母亲の広桥仲子の説得や义満による医师の派遣も効果がなく、11日には爱妾の按察局が义満との密通を疑われて出家させられた。困惑した义満は二条良基と协议して、15日に上皇の信頼が厚い里松资康?広桥仲光を派遣して上皇の相谈に当たらせようとしたが、これを闻いた上皇は义満が自分を配流しようとしていると思い込み、持仏堂に笼って切腹自杀を図るなどの騒动を起こしている。

18日に义満が院に出向いて宥めるとようやく上皇の心理は和らいだものの、治天の君の権威は失坠して再び苏ることはなかった。一条経嗣は「圣运之至极」と书き记している(荒暦永徳3年1月9日条)。

终わりに

义満と対立して後小松天皇に譲位していた後円融上皇が明徳4年(1393年)に死去し、自己の権力を确固たるものにした义満は応永元年(1394年)には将军职を嫡男の足利义持に譲って、従一位太政大臣に昇进、政治上の実権は握り続け、事実上で公武统一的な政権を成立した。

翌年には出家して道义と号した。义満の出家は、征夷大将军として武家の太政大臣?准三后として公家の顶点に达した义満が、寺社势力を支配する地位も得るためであろう。

応永2年には九州探题として独自の権力を持っていた今川贞世を罢免する。応永6年には西国の有力大名?大内义弘を挑発し义弘が堺で挙兵したのを机に讨伐し、西日本で义満に対抗できる势力は排除された。

応永13年(1406年)後小松天皇の母通阳门院厳子死去、义満は天皇一代に二度の谅闇は不吉であるとして、その室日野康子を後小松天皇の准母に立てて谅闇を回避させた。

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