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また祭祀権?叙任権などの诸権力を天皇家から接収し、义満の参内や寺社への参诣にあたっては、上皇と同様の礼遇が取られた。応永15年3月に北山第へ後小松が行幸したが、义満の座る畳には天皇や院の座る畳にしか用いられない繧繝縁が用いられた。4月には宫中において次男?义嗣の元服を亲王に准じた形式で行った。それらも皇家の権威ほとんど存在しないことであろう。
同年、义満死去、朝廷から「鹿苑院太上法皇」の称号を赠られるが、4代将军となった子の义持は辞退している。室町中期、赤松満佑が六代将军义教を杀害、幕府自身も混乱な状态であるし、その时期以降応仁の乱を経て明応の政変まで皇家の権威も徐々に回复だと考えられる。
つまり、天皇権威を崩壊过程は、まず、自主的な财政権力を失う、一旦その権力を失うなら、院政の财政的基盘も存在しない。そして、後嵯峨上皇が自らの後継者を指定しないだから、王家の分裂も当然であった。
自主的な财政権力も失うし、王家の分裂もあるし、その状态で天皇家は南北朝时代へ歩いて、南北朝时代の大乱の中で、権威もちろん迅速に崩壊であろう。